概要
日出ずる国、と日本が呼ばれる本当の理由とは?!
古代中国では文明社会のあらゆる分野が発達していきました。読み書き、都市、専門化された労働、青銅などの文化が日本の文明社会が出来る2000年前にありました。
結果として、中国は他国の文化に非常に大きな影響を与えました。強い影響力で日本初期の発展は中国の観点から本に記載されたのです
そして、中国が日本の位置する東をみる時、夜明けのやってくる方角を見ていたのです。
日本の大使が初めて中国に派遣されたとき、日本の呼び名は倭でした。
1世紀には大和一族が周囲をどんどん制圧していきます。5世紀になると日本の名前は大和となりました。日本にも政府が誕生し、中国の文化を取り入れていきます。
西暦600年には中国文化のファンでもあった聖徳太子は中国文化を広めていきます。さらに聖徳太子は中国に「日の昇る国の皇帝(日本の天皇)が日の沈む国の皇帝(中国の皇帝)に手紙を送るよ。変わりは無いか?」という内容の手紙を送りました。この手紙をきっかけに日本(ひのもという意味)が外交や記録文書で使われるようになっていきます。
倭国という名前が好きじゃない中国の皇帝は倭から日本に名前を変えたという話もあります。
さらに当時の日本の特使によれば、日本が太陽の昇る所に近いからということで日本と名付けられたとのことです。
諸説ありますが、7世紀には正式に名前が変わり、そのまま定着しました。その後1400年間も名前が続き、結局のところはシンプルに日本が中国の東に位置してるため、日本すなわち日出ずる国と世界で呼ばれるようになりました。
■引用元
海外の反応
・日本の歴史がまた一つ分かった!興味深い!
・この由来は今まで知らなかったし、知れてよかった!
・太平洋に島国があるんだ、、、それは日出ずる国だ。
・ヨーロッパではなんでニッポンではなくジャパンなんだ?
・中国に送られた「日の昇る国」の手紙はたしか中国を怒らせたんだよね。
・待ってくれ、ニューオーリンズもライジングサンの場所じゃないのか?
・ランド・オブ・ライジング・サンって名前はかっこよくていいな!
・昔、シンガポールから飛行機で飛び立ったことがあったけど、あの時見た太陽は最高だったよ。本当に壮大だったよ。
・日本語の文字をたまに見かけることもあるんだけど、文字がカッコイイから深々と見ちゃうんだ。今回は日本と中国の歴史を勉強出来てよかったよ。
・隣国が好きであっても嫌いであっても、少なからず歴史上では影響があったんだよね。
・昔はニッポンてのが何を意味してるのか分からなかったよ。自分が大きくなってからやっとニッポンがジャパンのことを意味してるのが分かった。
・中国と日本が長い歴史を持つ国ってのは知ってたんだけど、中国が紀元前2000年もの歴史があるってのは驚きだなー。
・ちなみにジャパンて名前はポルトガルによる翻訳なんだよね。
・さらに日本の歴史を勉強したくなってきた!
・日本がザ・ランド・オブ・サンライズ(日出ずる国)って呼ばれたことは初耳だ!
ひとこと
解説者のクセが強い
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コメント
ギリシャ、ローマの文化のせいで白人は勘違いしているが、それを言うならアフリカの古代エジプトや古代インド、マヤ、アステカも文明国家だった。今の欧米の文化のルーツはキリスト教暗黒時代の中世ヨーロッパで、ギリシャ、ローマの文明は異端として排除されていた。十字軍でペルシャから略奪して来た時に一緒にギリシャ、ローマの文化も逆輸入されてルネサンスが興った。
でも白人は野蛮だから技術が発達しても殺戮と略奪の為に使ったので白人は一時期世界を支配した。白人が世界を支配しているのは白人の文明が進んでいるからではなく野蛮で殺戮や略奪を好むから。
このレベルの知識で物知り面すんなよ
現在最古とされている土器は中国で発見された約2万年前の陶器片です
中国の相対的年代測定によるとそうだね
2万年前に窯を作って陶器を焼いたとするのは驚き。少し測定に疑念が残る。日本の土器は数百度で素焼きしたもの。文明段階を考えると日本の方が自然。
周辺国の名前にニンベンつけたのがまず異例の待遇らしいね
激怒した件が抜けてる
今の漢民族の歴史はここ100年だけ。
日本を表す「日の丸」「旭の丸」の旗は平安時代ぐらいから使われていたが、この「丸」が太陽、すなわち天照大神であることはあまり反対がないであろう、実際、古事記にはナガスネヒコに敗れた皇軍が、負けたには日に向かって戦ったからだと考え、今度は東の方からナガスネヒコに戦を挑み、ようやく勝を収めたという故事が記録されているからだ.以後、日本の正規軍や、正規軍を目指す戦国大名の多くは陣中に日章旗を掲げた.幕末の官軍も瀑布軍も日章旗を掲げた.明治後の皇軍や自衛隊も同様である.
このように「日」が太陽・天照大神を意味すると考えるなら、「日本」という国号も「天照大神」の本(もと)にある国という意気込みで選ばれた文字であると考えるのが自然であろう、聖徳太子の有名な十七条憲法(いつくしきのりとをまりななをち)には、「天皇は太陽のごとく、官僚は地のごとく、ともに作物を育て、国民を養うものだ」という意味のことが書かれている.
なお、日本を「ひのもと」と読むのは中世以前には見られない.「日本」は奈良時代には「やまと」、対外的には「にほむ」と読まれ、その後は二ホン、またはニッポンと読まれている.
蝦夷の陶器であって元々日本の陶器じゃない
日本が侵略した異民族の土地からたまたま見つかったという方が正しい
蝦夷(エミシ)は縄文人の一派
何を言っているのか?
「ヤマトって字に何か当て字してーなー…おっ、これイイじゃーん」
>>>
「我疑問、汝国名YAMATO当字如何?
(アンタのとこの国名ヤマトって何て字を当ててんの?)」
「是、”日本”(これ、日本)」
「……ニェット(日)プァン(本)?」
「何それシャレオツな響きじゃん」
その際の目印は生駒山の上の太陽である。
当時の大阪は河内湖があって、割と内陸部まで船で来ることができた。
生駒山の大阪側は草香(くさか)山とよばれ、日下(くさか)ともなる。
草香=日下(くさか)→(ひのもと)→日の本→日本となる。
現在、東大阪市に日下という地名も残っている。
いこま‐やま【生駒山】広辞苑第六版より引用
奈良県と大阪府との境にある山。生駒山地の主峰。標高642メートル。草香山くさかやま。
日本書紀には「日本此耶麻騰云」=「日本、これヤマトと言う」とある。
「大和じゃない」と思うかも知れないが、江戸時代でも漢字の当て字はかなりあり、奈良時代なんていうのは、同じ読みをするものでも充てる漢字は様々である。
聖徳太子の「日出づる処の天子」以降、正式な国名は日本となり、大和は日本の国の一部(当時は首都のある所)という事に固定されるようになったとみていい。
日本を「ニッポン」と読むのは平家物語などにも書かれている。
日本を「ニホン」と呼んだのは江戸時代中期の江戸で、江戸っ子がニッポンと発音できなかったため。
本居宣長の国号考に「新(アラタ)に日本(ニホム)といふ」一説がある。
にっぽん【日本】広辞苑第六版より引用
(古来ニッポン・ニホンと両様によまれる。ニッポンの方が古いが、本辞典では、特にニッポンとのみよむもの以外は、便宜上、ニホンとよむことにした)
①旧国名。今の奈良県の管轄。もと、天理市付近の地名から起こる。初め「倭」と書いたが、元明天皇のとき国名に2字を用いることが定められ、「倭」に通じる「和」に「大」の字を冠して大和とし、また「大倭」とも書いた。和州。景行紀「伊勢より―に還りて」
②日本国の異称。おおやまと。万葉集[19]「そらみつ―の国は水の上は地つち行くごとく船の上は床にをるごと大神の鎮むる国そ」
最近じゃ激怒が本当だったかどうかわからんらしい
旧唐書には「日本は倭の一種。日本が倭を併合した。」って書いてあるじゃん。
旧唐書東夷伝の中に、倭国伝と日本国伝の2つがあって、倭国と日本は別の国だよ。
日本と書いて「やまと」と詠むのは、倭国を継承しているから。
歴代天皇のおかしな部分は、この倭国王(魏に朝貢していた)と日本の大王(おおきみ)を意図的に混同しているから。
最近言い出した『漢族』の『漢』なんて紀元前に消滅してるのに?
マケドニアが名前を変えろと言われているように大陸の人物は移動する
ギリシャの歴史がすごくても現在の国がダメな国なのと同じで
支那もダメな国なんですよ そして民族が違う
どっちもやまとと読むが?違うのか?
中国の歴史ってひと括りにされがちだけど、民族として見るとガラッと変わるんだっけ?
それ言ったら、北方民族の侵略に次ぐ侵略を繰り返した中国は、中華民国成立以前の文物を自国の文物と言えなくなっちゃうぞw
旧唐書には続きがあってざっと訳すと「倭という名前が良くないので日本と改名した。または日本は小国だったが倭を併合した。日本の使者の態度がうぬぼれが強く横柄だったので、この事を疑う」という推測文がある。
636年成立の隋書は唐の時代にまとめた物で「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」の記述がある。遣唐使は630~894年までであり、隋および唐の時代に日本との正式交流はあったが後晋の時代にはない。
旧唐書の記述は、中国に朝貢してきたレベルの低い倭国だったはずなのに、聖徳太子は日本と称して生意気な手紙を送りつけてきた、倭国と日本が同一の国とは信じられない、というように戸惑っているだけの事。
馬鹿が知ったかぶりしない方が良い。
旧唐書の記録は続きではなく、並立させていくつかの説を書いているだけ。新唐書で倭と日本は統合されたけど、そもそも地理の記録が全く違うから単に倭と日本が同一と信じられないって戸惑ってる訳ではなく、実際に違う土地の人を記録したのが旧唐書。
そもそも中国史書での倭国の評価は概ね高いから、レベルの低い倭から日本へ~って話ではない。
因みに倭や日本以外にも、日本列島の記録は夷邪久国人、扶桑、毛人、衆夷、日出の陽夷、とかあるから、この外国人は間違ってるよ。
いや、原文は「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本為名 或曰 倭國自惡其名不雅 改為日本 或云 日本舊小國 併倭國之地 其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉」はこうなんだよねぇ。
そんなに君が賢いなら、隋書に倭国と日本と書かれていないのか説明してくれたまぇ。
1060年の新唐書では「日本 古倭奴也 去京師萬四千里 直新羅東南 在海中 島而居 ・・・咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音 惡倭名 更號日本 使者自言 國近日所出 以為名 或云日本乃小國 為倭所并 故冒其號 使者不以情 故疑焉」
とあるが、これらの記述の解説もよろしく。
倭を日本と認めたくないのは、邪馬台国=九州説を言っている奴に多い。
朝鮮半島ある414年建立の広開土王碑には、399年に倭が朝鮮半島に攻め込んだ事が書かれてある。記紀(日本書紀・古事記)の記述だと、14代目の天皇である仲哀天皇は熊襲征伐の時に亡くなり、その場所は福岡県で、香椎宮(官幣大社)が建てられて仲哀天皇・神功皇后が祀られている。仲哀天皇の死後、神功皇后がいわゆる三韓征伐(実質は新羅征伐だが)を行った。
488年の宋書には倭の五王が朝貢遣使していた事が書かれてある。
熊本県の江田船山古墳からは「ワカタケル大王」の文字が刻まれた鉄剣が出土。
埼玉県の埼玉稲荷山古墳からも「ワカタケル大王」の文字が刻まれた鉄剣が出土している。この刻まれた文字を解読した結果、ワカタケル大王=第21代目の天皇である雄略天皇=倭の五王のうちの武である事がほぼ確定している。
これらは唐より遙か以前の話なので、倭=大和政権=日本であると理解するのが普通なんだよ。
知り合いの中国人が言ってたんだけど、ホームレスって意味らしい。
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