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概要


慰安婦としての生活:金福童の物語


こんにちは。私たちは、アジアで起きた出来事の真実をお伝えしています。もちろん、難しいことからも目をそらさずに。多くの方々から、慰安婦について取り上げて欲しいというリクエストをいただいていました。慰安婦とは、第二次世界大戦の前と最中に日本帝国軍に性奴隷として働かされた方々です。


数カ月に渡る調査の結果、慰安婦だった方々の中で、生き残っているうちの1人の韓国人女性、金福童(キム・ボクドン)さんと話をすることができました。

これは、彼女のストーリーです。



14歳で日本軍に連れて行かれる

私は、韓国年齢で93歳。梁山市というところで生まれ、絆の強い家庭で育ちました。当時、韓国の若い男性は皆、日本軍に徴兵されていました。日本の統治下だったからです。日本軍は好き勝手していましたよ。


第二次世界大戦が始まった時、学校から男子学生を連れ出して、”学徒”として日本の為に戦わせていました。連れて行かれたのは男子だけではありません。韓国人の少女たちをも強制的に集めていたのです。彼らは、家にやって来て、少女たちを連れ去っていったのです。行きたくなかったのに、無理やり連れて行ったんです。


私が母に、どこに連れて行かれるの?と聞いたら、戦争中だから兵士の服を作る工場に行くのだ、と答えました。人手不足だから、と。

日本兵は母に、私が結婚する年齢になったら戻す、と約束をしました。だから彼らは、私が行かない理由はないと言ったのです。嫌だと言ったら・・・おそらく何もかもを失って、国を出て行かなくてはならなかったと思います。

そうして、彼らは私たちを脅したのです。工場で働いていれば、私は少なくとも死ぬことはない、と思ったので、行くことにしました。


日本軍は、私を釜山港に連れて行き、夜行フェリーで下関に連れて行かれました。そこには、30〜32人の女性がいて、みんな18歳〜20歳くらいでした。

私は当時14歳(韓国年齢では15歳)で、確実に最年少でした。

その後、別の船に乗り換えさせられて、台湾へと行きました。そこでも別の船を待ちました。私は幼すぎて、何がなんだかよく分かりませんでした。

それから別の船で中国の広東省へ到着しました。船を降りた時に、日本の高官の役人たちと会いました。年齢を聞かれて答えた時に、”若すぎないか?”と言っているのが聞こえました。



慰安婦としての酷い経験

建物の中に入って、と言われて入ってみると軍医がいて、体を診察されました

その後、寮へ行くように言われました。そこは、工場なのか学校なのかは分かりませんでしたが、とても広くて、外から見える部屋がたくさんありました。人が性行為をしているのが全て見えたのです。


初めての時、1つの部屋に引きずり込まれて、少し殴られました。私は従うしかありませんでした。終わった後はひどく出血していて、シーツが血に染まっていました。彼らが行為を終えた後、私は上の階にある自分の寮に戻りました

そこでは、2人の女の子が同じ目にあって、泣いているのを見ました。”死んだほうがましだ”って。



自殺未遂と後遺症

私たちは、どうしたら自殺できるかを考えていました。アルコールをたくさん飲んだら死ねると聞いたことがありましたが、お金がかかります

私には、幸いにも母がくれた1ウォンがあったので、それを自殺に使うことに決めました。母が、私にお腹が空いた時の為に、と持たせてくれたお金です。清掃員の女性にお金を渡してアルコール度数の高いお酒を1瓶持って来てもらいました。


私たち3人はそれを全て飲み終えて、気を失いました

邪魔されなかったら死んでいたのに、その日の夕方から私たちが行方不明だったから探されていたんです。医者が駆けつけて、全てを吐き出されました。そのせいで、私は今も食べ物をまともに消化できないんです。消えない傷をお腹につけられたのです。


10日後に目が覚めましたが、まだグラグラしていました。私は死ねなかった。そこで私は決めたのです。何が起きようと、生きて、ここで起きたことを伝えようと。生きて家に帰る、と。



続く慰安婦としての生活

従う以外に選択肢はありませんでした。そして、言う通りにしたので、殴られることはありませんでした

毎日、日本の兵士と性行為をさせられました。土曜日は12時に始まり、午後6時まで。日本兵たちは列になって並んでいました。もしも終わるのが遅いと、次の兵士がドアを叩くこともありました。次から次へとです。彼らはコンドームと潤滑油を使いました。


1日に1回や2回でも辛かったけれど、たくさんだったので、数えるのもやめました。午後5時には、起き上がることができませんでした。ちゃんと歩くこともできません。下半身全体が痛かったのです。その日の終わりには、軍医がやって来て、必要な場所に治療をしました。注射をして、薬を飲むように言われました。


日曜日には、午前8時から午後5時まで性行為をさせられました。そうして時が経ちました。広東から香港、マレーシア、インドネシア、シンガポールへも連れて行かれました。

でも、私が殺されずに生きているのは奇跡だと思います。



日本敗戦後

シンガポールでは、日本が戦争に負けた後、日本兵は慰安所の存在を隠そうとしました。私たちに看護婦ということにして。そして私は看護婦として、1年間働きました。


敗戦後も、シンガポールにいた日本兵は負けを認めることを拒否していて、アメリカ軍の上陸を止めようとしていました。そのうちに病院も閉鎖。その時に韓国人はアメリカの捕虜キャンプに行くように言われました。その時は誰も指揮を取っておらず、どこへ行ってもいいよと言われました。でも、私はどこへ行ったらいいの??わかりません。

数日間そこに留められた後、難民船が到着しました。私はそれに乗って、ようやく韓国にたどり着いたのです。



家族との再会

家族と再会して、何年経ったのかを尋ねたら、8年だと返って来ました。私は21歳になっていたんです。家族には会えたけれど、彼らは私に何があったのかを知る由もありません。どうやって私の経験したことを伝えたらいいのか・・・?

女性として、信じられないような酷いことをされました。だから、私は誰にも言えませんでした。みんなは、私が工場で働いていたと思っていました。


私は年を取っていたけれど結婚したがらなかったので、私の母はその理由を知りたがりました。母が正直に言って、と言うので、私は自分にされたこと全てを告白したのです。


私は他の男性の人生までめちゃくちゃにしたくなかったのです。誰も巻き込みたくなかった。母も誰にも言えず、とても苦しんでいました。やがて、彼女は心臓発作を起こし、それが元で亡くなりました。



日本政府に対して望むこと

ーいつ、このことを公表しようと考えたんですか?(インタビュアー)

60歳になった時です。このことを考える度に怒りと苦々しさを感じていて、真実を伝えたら解決するかと思っていましたが、今も解決されません。


ー日本には、あなたがお金をもらった娼婦だと、被害者ではないと主張する人々がいます。彼らにどう答えますか?

14歳の子供がそんなことをしてお金を稼ぎますか?その年で体を売るなんて考えますか?証拠は、彼らがこのことを隠そうとしたことです。もしも日本政府がそんなことは無かったと主張し続ければ、私は何を言えばいいのでしょうか?


ー2015年に日本政府と韓国政府は契約を結び、日本は賠償金として100億ウォンを支払いました。

私がこのことについて話す度に、彼らは私を黙らせようとします。朴槿恵が大統領だった時、解決方法について相談されていたら、喜んでそれを提案していました

なのに、私たちに一言も言わずに、前の政府は勝手にそんな契約を結び、慰安婦像を撤去することを決めたのです。


どうして、そんな一方的な契約をするんでしょうか?私は許せません。そんなことのために戦って来たのではないのです。


ー本当に望んでいるものは何ですか?

私たちを引きずりこんで、苦しめたことに対して謝ってほしい

正式な謝罪をしてほしい。”私たちのしたことは、完全に間違っていた”と言ってほしい。そして、歴史の教科書を正します、心から謝ります、と。もしも正式な謝罪を書いてくれたら、許すことができます。これは、お金の問題ではありません。彼らはこの問題を消そうとするから、そうされないように戦っているのです。これは歴史です!


ー後悔していることはありますか?

こんなにも長く引きずられると知っていたら、公表をしなければよかった。誰も知らなければ、静かに暮らすことができたのに。


14歳で、学校に行くべき時に、連れ去られました。勉強をできなかったことを後悔しています。もしも日本政府からお金をもらったら、学費を払えない生徒の教育のためにお金を使うつもりでした。ですが、私はもう92歳です。解決法が見つかりません。


ー日本が間違いを認めたら、許しますか?

はい。”罪を憎んで、人を憎まず”と言うでしょう。これは、安倍総理が起こしたことではありません。前の天皇が起こしたことなのです。


ー僕の意見ですが、真実は常に出てくると思います。

あなたは初めて聞くことだと思うけれど、私にとって、このことを話すことはとても辛いのです。この年で、平和に暮らしたいと思うけれど、日本政府がそうさせてくれないのです。このことについて話さなくてはならない時はいつでも、想像以上に心を打ち砕かれます。


このインタビューは彼女にとって、とても大変なものでした。彼女は現在、ガンの末期なのです。余命は3ヶ月程度。彼女は、このインタビューに全てを費やしてくれました。何十万人もの慰安婦の悲惨な真実がきちんと知らされるように。



■引用元



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海外の反応


・とても心動かされるインタビューだった。そして、とても悲しい。彼女は92歳で、いまだに苦しんでいる。もしも彼女が死んだら、そこできっと彼女は許すんだろう。日本人は恥じるべきだ。





とても嫌な気持ちになったから、7分しか見られなかった。私はキムさんに比べたら、とても小さな人間だよ。だって、数分でいっぱいいっぱいになってしまったんだもの。どうやって、彼女たちは精神的にも肉体的にも、こんな状況で数年間生き抜くことができたんだろう?





日本人は、アジアのナチスだ





・うわあ・・・。92歳のおばあちゃんが泣くのは、とても心が痛むよ。日本は美しい国だけど、こうした老女たちが持つべき心の平安を保つためにできることをしていない。





・日本人もこのビデオを見て、真実を学ぶべきだと思う。





・私は性的迫害を受けた人々の権利擁護のために働いているの。彼女の名前において、奨学金を始めることは可能かしら??





・たくさんの人々は、日本はパステルカラー、アニメ、寿司のあるとても素晴らしい国だというイメージを抱いているけど、こうしたビデオを見る必要がある。日本だって、他の国と同じだよ。大きな間違いを犯してきたんだ。





・理解できない。謝罪するのって、そんなに難しいの?





・私たち(オーストラリア在住)は、40人以上の日本の留学生を受け入れたんだけど、彼らはみんな親切で、敬意を持って接してくれる子達ばかりだったわ。でも、2人の16歳の子たちをホストした時に、日本の教育の真実がわかったの。1人はドイツ人で、もう1人は日本人だったわ。最初は分からなかったけど、第二次世界大戦に触れたビデオを見て、その話をしていた時に分かったの。ドイツの女の子は、日本人の子が、他の国はみんな知っていることを知らないことに愕然としていたわ。2人は知識や情報量において、とても対照的だった。日本がいかに彼らの過去についてごまかしているのかに気づいたわ。彼らは、再びそんなことが無いように、きちんと学ぶべきよ。





・涙が出たよ。彼女も、そして全ての女性たちもこうした恐ろしいことに苦しんだはず。想像を絶する強さを持って。どうか、彼女たちが平和と喜びを見つけられますように。





・私はインドネシア人で、日本に数ヶ月前に旅行したの。日本人のおじいさんが私がインドネシアの言葉を話しているのを聞いて近寄ってきたの。で、彼は完璧なインドネシア語を話したわ。彼は退役軍人で、インドネシアで暗殺を行なっていたんですって。彼は、自分が私の国にしたことに対して、国を代表して謝っていたわ。むしろ声を出して泣いてもいたの。これは旅行中に起きた中で、一番変な感じのする体験だったわ。





・日本は、彼女や他の慰安婦に対して謝る義務がある!





・このビデオが作られて、嬉しいわ。みんながこのことについて知るべき。





・韓国だけじゃ無い。フィリピンもだよ。お母さんが言ってたんだけど、彼女が小さい頃に日本の兵士が村にやって来て、見つけた人の首を切ろうと見て回ってたんだって!





・なんてこと・・・あまりにも酷い経験だわ。日本が彼らに対してちゃんとした謝罪をしてほしい。こんな酷いこと、想像もできないわ・・・(涙)。



ひとこと


1週間前に何を食べたかも思い出せない私には何が真実なのかよくわかりませんが、「自殺のためにお酒を飲んで10日後に目が覚めた」というのは嘘くさいな〜と感じました

酒で10日も昏睡状態続かないですよね。。

本人は知らなくても親が子供を売った金を受け取っているケースは現在も存在するので、何が何だか....

ただ、間違いなく言えることは「おばあちゃんの涙」に弱く、内容の真偽問わず話をそのまま信じる人は世界中にいることと、それを利用した韓国のプロパガンダは上手いということです

反対意見を持つなら積極的に海外に発信していかないと情報戦に負けますな、こりゃ

歴史って記録されるものじゃなくて作られるものですから


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