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概要


Umar Mita:コーランを和訳した最初のムスリム翻訳家

Haji Umar Mita(日本語名は三田了一)は、1892年12月19日に山口の武士の家に生まれた。


山口高等商業学校(現山口大学)を病気がちだったため24歳で卒業すると、彼は中国に行き、ここで多くの年月を過ごした。日清戦争と日露戦争のため、中国は彼にとって馴染み深い名前だった。ここで彼はイスラムと出会うことになった。

中国大陸の各地を廻りながら、了一は沢山の人と出会い、中国語を学びながら人生経験を積んでいった。彼の医学的なスキルが人との繋がりを強くし、その個人的な繋がりからムスリムの実生活、考え方、ムスリム社会を知っていった。了一は特にライフスタイルに感銘を受け、「中国のイスラム」という記事を東亜経済研究に投稿している。

一方でこの間、日本での最初のイスラム歴史の幕がHaji omar Kotaro Yamaoka(山岡光太郎)によって開けられた。彼は1909年にハッジを行った最初のムスリム日本人信者だ。


Haji omar Kotaro Yamaokaは日本に戻ると、彼の巡礼の旅とムスリムの世界を紹介、説明しながら各地を巡った。Haji Yamaokaは1912年、彼のアラビアとメッカの巡礼の旅についての本を書いた。まだ学生だった了一は書かれているイスラムの地に感銘を受けた。おそらく了一は中国に渡る前に、彼はすでにイスラムの知識を得ていたと推察される。


1921年、三田了一は一旦日本に戻り、講義を受けたりHaji omar Kotaro Yamaokaの書物を勉強した。そして彼はイスラムを更に知るために、鎌倉で初めてHaji Yamaokaと会った。三田了一29歳、Haji Yamaoka41歳のことだった。了一はイスラムから正式に認められていなかったが、すでにイスラムに心が傾いていた。

1941年は了一にとって転機だった。中国に派遣されると、彼はイスラムに改宗することを決めた。Umarの名をもらい、正式にイスラム教徒となった。


了一のイスラムへの道のりは、私たちに貴重な教訓を与えてくれる。形式的なことではなく、深い信仰と個人の経験からの愛が導く真実への道だ。


Umar Mitaは、改宗時すでに49歳だった。中国ムスリム協会でのカウンセラーのポストに就き、1945年、戦争が終わるとその職と住んでいた北京を離れ、日本へと戻った。

30年もの中国での生活を終え、日本に戻ると、Umar Mitaは関西学院大学や北九州大学で中国語の講師として過ごした。彼は妻を亡くしてしまったため、講師を1952年にやめて東京に移り、イスラムの活動に専念することに決めた。この時とほぼ同じ時期に、日本で個人でイスラム生活を送っていたイスラム教徒は、日本イスラム協会を設立した。

Umar Mitaが中国にいた間、イスラムは日本に根付きつつあった。Haji Omar Yamaokaの講義や出版物による礎となる活動が原動となった。


東南アジアのムスリム国にいて第二次世界大戦中にムスリムとなった日本人避難民、ソビエト連邦時代に故郷を離れ日本に移住したトルコ系ムスリム難民、そしてタタール難民も日本のムスリムに大きく貢献した。

東京に移った1952年はまだ戦争の爪痕が残っていた。しかしながら彼はイスラムとアラビア語を学ぶことに身を捧げた。彼は海外からのタブリーグが来ると彼らの活動に参加していた。


1957年、彼はパキスタンのタブリーグとコネクションを作り、ムスリム内外との意見交換のためパキスタンを訪れた。彼の健康状態からもこの旅は難しいものだったが、神がアッラーへの道へ彼を導いた。1958年、彼はメッカを訪れ、長年の夢だったHajjを行った。1960年、日本ムスリム協会の初代会長であるSadiq Imaizumiが逝去すると、彼は2代目に就任した。

時を同じくして、コーランが和訳され出版された。1920年、1937年、1950年、1957年にそれぞれ和訳が出版されたが、どれも翻訳はムスリムによるものではないため、ムスリムの背景に欠けていた。Umar Mitaは日本のムスリムのためにアラビア語からの翻訳が必要だと考えた。彼のほかに適任はいない。彼は自身の健康状態が心配だったが、アッラーの慈悲にその問題を委ねた。既に69歳だった。


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1961年、70歳の時、彼はアラビア語をアラビア人とコーラン研究者と学うために再びパキスタンを訪れた。サウジアラビアにいる間、彼は多くのコーラン研究者と交流を深め、彼の翻訳は多大な進捗を遂げた。
彼は、1963年、交通事故にあい、同じ車にいたHafiz Arshadを亡くした。彼自身も深刻な傷を負ったが、奇跡的に生き延びることができ、日本に戻ることができたのだ。

故郷に戻ると、彼は治療を受けながら翻訳を続けた。都市の喧騒から逃れて仕事をするため、彼は宮崎や山梨の塩山に滞在した。ここで彼は日本人ムスリムであるAbu Bakr Morimotoと出会った。彼にとって、同じムスリムの出版業界の人と知り合えたのは安心であった。

1968年、翻訳が完了し、日本ムスリム協会によって1年半の査読後、初版が完成した。1970年6月、この翻訳を持って、彼は再びメッカを訪れた。これはさらに委員会によって改訂され、半年の査読後遂に出版となった。日本人ムスリムが所有している広島のたくみ工房から印刷された。


1972年6月10日、ついにコーランの初版が出版された。彼は既に80歳であった。出版後も、彼は翻訳のノートを書き続けた。

翻訳をしながらも、彼は決してムスリムとしての他の務めを忘れることはなかった。81歳になっても日本ムスリム協会に2時間をかけて赴き、カウンセラーとして務めた。若い世代にとって彼の指導を受けることは幸運なことだった。1974年3月、彼は再びメッカを訪れ、同年11月にはインドのニューデリーで行われたイスラム学会にも参加した。

彼の生き方が日本のムスリムの良き導きになるよう、そして彼の崇高なミッションが今もこれからも価値のあるものであるよう、アッラーに祈ろう。



■引用元



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海外の反応


・素晴らしいライフワークだ。

・彼の魂にアッラーのご加護がありますように。

・彼のこの素晴らしい仕事は、きっと代々受け継がれていくと思う。

・コーランは最初に‘Sindhi’で訳されたんだよ。パキスタンのよく知られている言語だ。

・彼はまだ生きているの?



↑いや、もう生きていないよ。1892年に生まれたからね。

・コーランの翻訳を終えたのが80歳なんて、すごいね。

・アッラーの心のままに。(Masha Allah)

・素晴らしい!感動した。

・神も喜んでおられるだろう。

・とても感動的な仕事だ。

・神のご加護があったんだね。

・日本にこういう素晴らしい動きがあったんだね。

・多くの困難を乗り越えてライフワークを完成させたんだね。

・とても心に響く話だわ。

・神が彼にこの素晴らしい仕事を託されたのだろう。



ひとこと


しかも男前



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