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概要


かつての米国人兵士、サイパンで亡くなった日本兵の日章旗を家族に返却


第二次世界大戦中、太平洋信託統治諸島にて日本の戦っていたマービン・ストロンボ氏は、他5人の兵士が彼無しで行動したことに気が付いた。


1944年、サイパンで戦ったスカウト狙撃小隊の一員、米海兵隊は、慎重に地形を調査していた。彼は左側の地面に日本兵の死体が横たわっているのを発見。その若き兵士はまるで深い眠りについているかのように安らかな表情を浮かべ、ジャケットから何か白いものが飛び出していた。


ストロンボ氏は跪き、シルクの旗を引っ張り出した。真っ赤な丸の周りに見事な刺繍が施されたものだった。彼は躊躇ったが、やがて旗を取り上げ、日本軍が侵攻したガラパンの町に侵入する小隊と合流するために戻った。


70年以上経ち、ストロンボ氏はかつては敵だった彼の家族に旗を返しに行くのだ。93歳になった彼は旗を返すため、離れた山間部に位置する兵士の故郷を訪ねるため、あるいはさようならを言えなかった兄弟、そして2人の姉妹を訪ねるため、16,000km(10,000マイル)の旅に出て、最初の目的地、東京に金曜日、到着した。


国内メディアのインタビューを受ける際、ストロンボ氏は車椅子で登場した。


「私が彼を見付けたとき、銃弾や榴散弾の跡がなかったため、追撃砲の爆発により亡くなったのだと気が付いていました」とストロンボ氏は、オレゴン州ポートランドで飛行機に搭乗する前に思い出したのだという。


それから静かに、「きっとあの兵士は私に見付けて欲しかったのだと思います」と話した。


旗は日本兵たちと愛する者たち、そして使命を繋ぐお守りの役目を果たしていた。寄せ書きのうちいくつかはクラスメイト、近隣住民、そして親戚などによって書かれていたという。


同盟国の部隊はよく戦利品としてそれらを遺体から持ち帰っていた。日本人家族にとって、愛する者たちがどのように亡くなり、遺留品が残らないということで、それらは非常に重要な意味を持っていた。


ストロンボ氏にとっては、モンタナ州にある自身の家に長きに渡り飾ってある旗は、訪問者への話題提供にもなり、4人の子どもたちの好奇心も引き付けられた。ストロンボ氏は、サイパンやタラワ、テニアンにおいて、日本の支配を徐々に削り、米国を勝利へ導く道を切り開くとした自身の役割を一度も口にはしなかった。


ストロンボ氏は旗に関してさらに深く知ろうと手紙をしたためたが、やがて止めてしまった。ストロンボ氏は日本語を全く知らず、インターネットが無い時代には到底難しいことだった。


そして2012年、かつて司令官だった人物の息子が、小隊について彼が書いていた書籍について連絡を寄越してきた。


彼を通し、ストロンボ氏はオレゴン州にある非営利組織OBON SOCIETYと関りを持つことになる。OBON SOCIETYは、老兵やその家族が日章旗を遺族に返却する手伝いをしている組織である。


1週間もしないうちに、研究者たちは日章旗の寄せ書きを読み、それが安江貞夫氏であったことを突き止めた。そして安江氏が岐阜県の山間部に位置する人口2,400人ほどの村出身であったことも。


寄せ書きは東白川村にて安江氏が戦争へと旅立つのを見送った、180人の友人たち、あるいは近隣住民たち(42人の親戚含)によるものだった。89歳の兄弟と2人の姉妹含むうち7人は未だ健在である。


調査員が安江氏の兄弟に電話連絡を取った際、兄弟は今その日章旗を持っている人物が遺体を見つけた者と同一人物であるかを確認したのだと、妻敬子と共にOBON SOCIETYを共同設立したレックス・ジーク氏は話した。


「僅かな沈黙の後、彼は尋ねました。“彼は私の兄弟がどのように、そしてどこで亡くなったか知っていると思いますか?”と。そして我々は、彼がその家族の一員として生き、また、自身の兄弟に何があったのかという疑問と共に生きているのだと理解したのです」


これらの疑問に答えることが出来るのは、唯一ストロンボ氏のみである。ガラパンの郊外のどこで安江氏の遺体を発見し、追跡砲の爆発により亡くなった可能性があるということも大まかに話すことが出来るだろう。


「腰を屈めて彼の顔を見てみると、まだ若いということは分かっていました。彼は僅かに左向きになって仰向けに寝ていました」とストロンボ氏は語る。


OBON SOCIETYはこれまでに125もの旗を返却し、自身の行動に後悔しているかつての兵士たちから、死ぬ前に旗をあるべき場所に返したいと1日に5本もの問い合わせを受けるという。


このような行き場を失った旗が、米国中には未だ多く隠れているのだという。ストロンボ氏は、OBON SOCIETYを介して日本人家族に直接旗を返却した第二次世界大戦の兵士第1号だった。


これは許しを得るため、そして人生の最終章へ向けての旅なのである。


40人いたストロンボ氏の仲間たちで今も健在であるのはたった2人のみだといい、彼が何週間にも渡り戦いを繰り広げたこの湿度の高い諸島は今では大きな戦史の中では付随的な事件とされていることもストロンボ氏は分かっている。


「家族に会ってみたかった」とストロンボ氏は掠れた声で語り、「この日章旗が家族にとってどれほどの意味を持つか、知っていたのです」と。



■引用元



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海外の反応


・日本好きとしてストロンボさんにはお礼を申し上げます。ありがとう。そんなに何年も、何十年も旗を保管していてくれて。






・素晴らしい! 私の祖父もこういった経験があると言っていたわ。そのとき叔父が日本に住んでいたから、遺族に旗を返すことが出来たの。






・美しい話だね。かつて最悪の敵だった今は、最高の同盟を結んでいるなんて。






・彼は間違いなくこの家族のヒーローだろうね。






・素晴らしいストーリーだよ! 家族にとったら遠くの地で亡くなった兄弟の最期を聞けるチャンスなんて滅多にないもの。






・ストロンボさんには永遠の栄光を…。






・日本人の魂はとても美しいね。そんなにたくさんの人が寄せ書きだなんて。






・遺体から旗を盗むだって? まあ、当時ではよくあったことなのかもしれないね…。ただ旗に関してはもうちょっと早く返してあげることも出来たんじゃないのかなって思うのが正直なところだけど…。






・間違いなくこの家族はとても喜んだだろうね!






・時代は変わったってことかな。日本も、アメリカもさ。






・こうしてこういったことがニュースになってくれるのは嬉しいね。それで自分もそうしようって思ってくれる人が多くなるかもしれないし。






・今は日本とアメリカの間にはラブアンドピースがあるのさ!






・インターネットがない時代に言語も分からずコンタクトを取るのは、確かに至難の業だよなあ…。






・ありがとう! 私は日本人だけど、きっと家族もやっと兄弟が戻ってきたって喜んだと思うわ。






・戦争時代に比べたら、今の日本は人もフレンドリーでアメリカ人にも優しいし、本当に変わったよな。場所も理由も、兄弟の最期が分からないってどんなに辛かっただろう。本当にストロンボさんはよくやった!



ひとこと


海外の日本人墓地に行ッタトキにアメリカ人が墓参りしてるのを見たことあります


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