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概要


原爆が日本を負かしたのではない。スターリンだ。


米国が第二次世界大戦中日本に対して原爆を落としたことについて、長い間感情的な論争が繰り広げられてきた。はじめは、長崎と広島、2ヶ所に原爆を落下させるとしたトルーマン元大統領のこの決定には疑問の声も上がった。


しかし1956年、この原爆は戦争に終止符を打つこととなったが、日本の指導者たちはもともと降伏しようとしていたのだと歴史家ガー・アルペロビッツ氏は言う。つまり原爆はこのとき必要なかったのだ。


もし原爆投下が勝利のために必須でなかったとすると、長崎と広島の件は明らかに間違いだったということになる。この48年間でさらに多くの人がこの騒動に参入し、中にはアルペロビッツ氏の言葉を繰り返し原爆を非難する者、逆に原爆は必要なものであり救いだったとする者などがいた。


しかしながらそのどちらにしても、広島および長崎への原爆投下によって、日本は8月9日、降伏せざるを得なくなったのは確かだ。そのどちらもがそもそも原爆の使用について本質的な疑問を忘れている。原爆は作用したのか? 


普通の見解であれば当然イエスだろう。作用した。


米国は8月6日に広島、そして同月9日に長崎へと原爆を投下している。そしてさらなる原爆の恐怖に屈した日本は投降したのだ。この説が有力であるが、しかしながらそうなると大きな問題が3つほど浮上してくる。日本の降伏に関して、その理解を覆すことになるようなものだ。



時期


第一の問題は時期(タイミング)についてである。これは非常に重要な問題だ。


元来の理解の中での時系列としては、まず米国が広島に原爆投下したのが8月6日、長崎に原爆が落とされた3日後のこと。そしてその翌日、日本は降伏の意思を見せた。例え米国の新聞が「太平洋に平和が。原爆の勝利!」という大見出しを載せていたとしても、誰も責めることは出来なかいだろう。


米国の歴史において広島の話が語られる際、8月6日の原爆投下が最高潮のクライマックスとして表現される。この物語の全ての要素がもはやその瞬間に向けられているといっても過言ではない。原爆の開発が決定され、ロスアラモス国立研究所にて極秘開発が行われ、実験が行われた後、広島に落とされる。


つまりこの話は原爆の物語ということになるのだ。しかしこの物語の内容からは、日本が降伏することを決断したときのことなどを客観的に分析することが出来ない。こうして「原爆の物語」としてしまうことにより、原爆の働き自体が中心となってしまうからだ。


日本視点で考えてみると、8月の2週目で最も重要だったのは6日ではなく9日だったのではないか。無条件降伏に関する議論を行うために、戦争中に初めて最高会議が顔を合わせる日となったからだ。


最高会議とは、1945年、日本での規制を取った政府の主要6人が集まった集団のことをいう。

この日以前は、日本の指導者たちは降伏について真剣に考えたことはなかっただろう。無条件降伏(同盟国が要求していたもの)は辛い経験だった。米国および英国ではすでに戦争犯罪裁判が行われていた。裁判にもし神聖なる天皇が置かれていたらどうなっていたのか? 


天皇を退かせ、政府の形を全て変えてしまっていたといたら? 1945年夏の状況が悪かったとはいえ、日本の指導者たちは自身の習慣や信念、人生のあり方などを諦めようとは思っていなかった。8月9日までは。


それでは突然考えを変え、決定的な決断を下すこととなったのはどういうことなのだろう? 何故戦争が開始されてから14年後に降伏についての話し合いが設けられたのか?


長崎が原因ではない。長崎への原爆投下は8月9日の午前中に行われ、これはすでに最高会議が降伏について議論を始めた後のことだった。そして原爆の報せが彼らの耳に入ったのは、その日の午後のことである。このときにはすでに行き詰まりのうちに閉会し、また議論を始めるために全ての閣僚が招集された後だった。


広島も原因とは考えられないだろう。広島へ原爆投下がなされたのは、長崎の74時間、つまり3日も後のことなのである。一体何がこの3日という空白の期間を生んだのか? 


この問題の特徴は、相手にまた同じことが起こるのではないかという感覚を与え、今すぐに行動を起こさなければという圧迫感を覚えさせるところにある。広島が攻撃され、この3日間という時間、日本の指導者たちは一体どのような気持ちだったのだろうか。


ジョン・F・ケネディ元大統領は朝の8:45頃、当時の大統領補佐官マクジョージ・バンディがキューバにてソ連が秘密裏に核ミサイルを置いているとの情報を報告しに来たとき、ベッドに座って朝刊を読んでいた。それから2時間45分以内に委員会が形成され、どうすべきかの議論がなされたのだ。


ハリー・トルーマン元大統領は1950年6月25日、北朝鮮の軍隊が北緯35度線を越えて韓国に侵攻したとき、ミズーリ州のインディペンデンスにて休暇を取っていた。州務長官アチソンは土曜の朝にそれをトルーマン元大統領に報告した。24時間以内に、トルーマン元大統領は帰途に着き、軍隊と政治顧問と共にブレアハウスに到着(ホワイトハウスはリノベーション中だった)。


1863年、南北戦争の際にポトマック軍を編成し、リンカーン元大統領に「彼はのろまだ」と言わしめたジョージ・マクレランですら、ロバート・リーによるメリーランド侵略の情報を受けて12時間ほどしか無駄にはしなかったのだ。


これらの指導者たちは緊急の報せを受けてすぐに行動している。誰もが短時間で決断を下しているのだ。これを踏まえた上で、日本の指導者たちの行動とどう結びつけるのか? もし広島への原爆投下が結果的に戦争開始後14年の降伏の理由であるとするならば、何故彼らは3日もの間それを議論していたのだろうか?


中にはこれは完璧に論理的なものだと言う者もいるだろう。彼らは徐々に原爆の恐ろしさに気が付いたのだと。彼らは原爆を核兵器だとは知らず、それに気が付きその恐ろしい影響を理解したとき、降伏しようと決めたのだと。しかし残念ながら、この説明では証明出来ないのだ。


まず第一に、広島県知事は広島に原爆が投下されたその日に、人口の1/3が命を落とし、街の2/3が焼失したという情報を東京に届けている。つまり原爆の威力は最初から分かっていたのだ。日本の指導者たちは結果がどういうものであるのか分かった上で、行動は起こさなかった。


そして第二に、軍によって作成された、広島で何が起きたのかが記載された予備調査報告書が、8月10日まで届けられることはなかった。つまり降伏を決定したときにはまだ東京に届いていなかったのだ。口頭での報告は8日、軍隊の方に届けられていたが、2日後まで原爆に関する詳細はまだ分かっていない状態だった。そのため降伏への決定は広島に起きた惨事からなされたことではない。


3つ目に、日本軍はそれがざっとした感覚だったとしても、核兵器の恐ろしさを理解していた。日本には核兵器プログラムがあったのだ。兵士の中にも、広島を壊滅状態に追い込んだのは核兵器だと日記に残す者もいた。阿南惟幾(これちか あなみ)陸軍大臣は、8月7日の夜、日本の核兵器プログラムの責任者との会議に行っていたほどだ。つまり日本の指導者たちが核兵器の恐ろしさを知らなかったという説も通らない。


最後に、このタイミングにおいては衝撃的な問題がひとつある。8月8日、外交官東郷茂徳氏は、鈴木貫太郎元首相に会いに行き、広島の原爆被害についての話し合いをするため、最高会議を開くように打診したが、メンバーが拒絶。そのためこの問題はついに同月9日まで進展することがなかったのだ。



広島の原爆投下への恐ろしさに依存した日本の指導者たちの行動においては、8月8日、原爆に関する会議が開かれ、さして重要ではないと結論付けられた後、翌日に突然降伏することになったということになる。内部分裂でも起きたか、それとも降伏の動機となり得る何かが起きたのか。


歴史的には、原爆の使用は戦争の中でもとても際立った出来事のように思える。しかしながら、現在の日本の見方では、原爆とその他の出来事との間に大差はないかもしれない。嵐の中、落ちてくる一粒の雨と同じようなものだ。


1945年夏、米国空軍は世界中に衝撃を与えることとなった、街を壊滅させる運動を敢行する。日本国内68もの都市が攻撃され、その全てが部分的に、あるいは完膚なきまでに破壊された。約170万人もの人が家を無くし、30万人もの人が命を落とし、75万人が傷を負ったとされている。通常の爆弾での攻撃が66回、核爆弾が2回。夏中ずっと、街が煙に包まれる。この破壊の最中、例えそれが新しいタイプの強力な兵器であったとして、それほどの印象付けにならなかったのだとしても不思議はない。


マリアナ諸島より飛んできた航空機B29は、目的の場所や攻撃の高度などにもよるが、16,000~20,000ほどの爆弾を積むことが出来たという。通常攻撃では500ほどの爆弾が投下される。つまりこれはそれぞれの都市に4~5キロトンもの爆弾を落とすということだ(キロトンとは1,000トンのことで、核兵器の爆破力の基準となっている。広島への原爆は16.5キロトン、長崎は20キロトン)。ひとつひとつの爆弾が消費されていく一方、爆弾が均等に(それ故効率的に)破壊を広げていった。うちいくつかは落とされた2つの原爆の破壊力に近かったという。


1945年3月9日~10日の夜にかけて行われた通常の東京襲撃は、未だ戦争史の中で語り継がれるものとなっている。東京の16平方マイルほどが焼失した。実に120,000人もの人命が失われたといい、これは都市に行われた爆撃の中でも最も大きな数だという。


語り継がれてきた話からすると、広島爆撃の方がひどかったのではないかと想像してしまう。数え切れないほどの人命が失われたと。しかし実際のところ、1945年夏に爆撃された68全ての都市で亡くなった人の数をグラフにしてみると、広島は2番目だったということが分かる。ちなみに焼失した面積に関しては4番目だ。そして破壊された土地をパーセンテージで表すと17番目。広島がその夏爆撃の範囲内だったということは明らかだ。


我々の視点からすると、広島への爆撃は本当にすごいものだったように見える。しかしこの3週間の日本の指導者たちの気持ちになって考えてみると、その想像はまるで違うものになるだろう。


もし7月下旬から8月上旬にかけて、自分が日本の主要人物のひとりであったなら、この経験はこのようなものになったはずである。7月17日午前、夜のうちに大分、平塚、沼津、桑名の4都市が爆撃を受けたという報告が入る。うち大分と平塚は50%以上の土地が焼失。桑名は75%で沼津は90%以上とさらに深刻な状態だという。


3日後、今度は3都市が爆撃を受けたという報せで目を覚ます。福井は80%以上が破壊された。1週間後、さらに3都市が夜のうちに爆撃を受ける。2日後には75%が焼失した一宮含む6都市が空襲の被害に遭った。


8月2日、オフィスに到着するとさらに4都市が爆撃を受けたとされる報告を聞かされる。この4都市の中には99.5%が焼失したという富山(1945年時点でおおよそテネシー州のチャタヌーガと同じ大きさ)も含まれていた。実質的には都市ひとつが消えたというレベルである。4日後にはさらに4都市が攻撃された。8月6日には1都市、これが広島だ。報告では被害は大きく、新型の爆弾が使用されたと書かれている。これだけの攻撃を受けていて、一体このたった一度の爆撃がどれだけ目立ったというのだろう?


広島空襲の3週間前、米軍によって爆撃を受けたとされる都市の数は26にも上る。そのうち8都市、つまり1/3は広島と比べて大部分を失うこととなった(焼失した土地に関しては)。1945年夏に日本が68都市を壊滅状態に追い込まれたという事実は、広島の件が日本の降伏に繋がったと主張する人々にとっては問題だろう。疑問として挙げられるのは、もし都市が攻撃されたことで降伏したというのなら、何故66都市が爆撃された時点で投降しなかったのだろうか?


広島や長崎への空襲によって日本の指導者たちが投降するつもりだったのだとしたら、彼らは通常の爆撃に対しても気にかけており、それが彼らに圧をかけたと想定されるだろう。しかし恐らくそうではない。


東京空襲の2日後、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)元外務大臣が、当時の官僚たちの中で広く持たれていたであろう感情を説明した。幣原氏は「日に日に爆撃を受けるのに慣れていきました。同時に団結力や決心が強くなっていったのです」と意見した。友人へ宛てた手紙で彼は、例え何百、何千人の命が失われようが、どれほどの建物が焼失しようが、市民にとってこの苦難を耐えることは大事なことだったのだと話している。外交のためにはさらなる時間が必要だった。幣原氏は極端な人間ではなかった。


政府の最高機関、最高会議でも、態度はおおよそ同じだった。最高会議ではソビエト連邦が中立を保っていることの重要性を議論したが、空襲が与える影響についての討論には至らなかったのだ。それどころか、会議では空襲は1945年5月に一度、8月9日の夜に一度の二度ほどしか話題にも持ち上がらなかった。史料に基づくと、日本の指導者たちが、戦争を行っていく中で空襲についてそれほど重要視していたと結論付けるのは難しい。


阿南惟幾氏は8月13日、核爆弾はこれまで日本が耐えてきた空襲に比べれば脅威ではないと発言。もし広島や長崎が空襲よりも最悪の状態ではないと感じ、日本の指導者たちがことの重要性を欠いて討論を掘り下げなかったのだとしたら、広島と長崎がどうやって降伏に繋がったというのだろう?



戦略的意義


日本が空襲や原爆(主に広島)のことに関して考慮していなかったのだとしたら、日本が気にかけていたのは一体なんだったのだろう?

答えは簡単だ。ソビエト連邦である。


日本人は比較的難しい戦略的状況にあった。負け戦となっていたのだ。状態は最悪だった。しかしながら軍隊は未だ強く、装備も十分、おおよそ400万の男たちが軍隊に属し、うち120万は日本を守備していた。


強硬的な姿勢を見せていた指導者たちですら、この戦争が続けられないということを知っていたほどだ。問題は続けるかそうでないかということだったが、可能な限り一番良い条件のもとどう戦争を終結させればいいものか。


同盟国(米国、英国やその他ーソビエト連邦は中立であった)は「無条件降伏」を要求した。日本の指導者たちは戦争裁判を避け、自分たちの政府の形、また韓国やベトナム、ビルマやマレーシアの一部やインドネシア、中国東部の大部分や太平洋地域の多くの島々など、自分らが支配したテリトリーのいくらかを維持出来る方法を見出そうとしていたのだ。


彼らは2つ、降伏の条件として良いプランを考え出した。つまり、2つの戦略的選択があったということだ。


まずは外交。日本は1941年4月、ソビエト連邦と5年間の中立協定を結んでいた。これが1946年までの予定だったのだ。民間指導者から成り立つ、東郷茂徳外務大臣率いる組織は、米国が同盟国と和解すること、そして一方では日本との和解を望んでいた。長期的計画であったが、戦略的思考であるかのように反映された。


なんといっても、その和解が米国にばかり有利でないことを確かめることは、ソビエト連邦にとっても良いことだったのだ。米国の影響力が強くなり、アジアが力を付けることはロシアの力と影響力を低下させるのと同義だった。


2つ目の計画は軍隊であり、陸相阿南惟幾率いる支持者たちのほとんどは軍人であった。彼らは帝国陸軍地上部隊を使って米軍に多数の死傷者を与えることが出来ていれば、米国への降伏にもっと良い条件を付けられたかもしれないと思った。この計画も長期的なものだ。米国は無条件降伏を深く約束するように見えたが、実際のところ、米軍内部には侵攻における死傷者を禁止していたため、日本総司令官は完全に的を射ているとは言えなかった。


日本の降伏の理由が広島原爆であったのか、それとも侵攻やソビエト連邦による宣戦布告であったのかを測る方法のひとつとして、これら2つの出来事が戦略的状況に影響を与えたものであるのか比較をすることである。


広島に原爆が落とされたのは8月6日、この2つの選択肢はそこでもまだ生きていた。その時点ではまだスターリンに和解を願い出ることも出来ていた(そして高木氏の8月8日付けの日記では、このときは指導者たちの中にはスターリンを巻き込むべきだとしていた者もいた)。


同様に、最後にもう一度だけ戦うことを決め、痛手を与えるという選択肢もあった。広島の破壊は軍隊の士気を下げることはなかったのだ。もう残っている都市も少なく、しかし彼らはまだ耐え忍んでいた。彼らはまだ攻撃手段を持っていた。彼らの軍隊の強さが削がれることはなかったのだ。広島への原爆投下は、日本の戦略そのどちらをも排除してしまうこともなかった。


ソビエト連邦の宣戦の影響と、満州とサハリンの侵略は、しかしながらかなり異なるものであった。ソビエト連邦は一度は開戦し、スターリンはもはや調停者として動くことが出来ず、そのときすでに彼は好戦的であった。そのため、ソ連の動きによって外交的手段は失われてしまったのだ。


軍事的状況に対する影響は同様に劇的なものだった。日本の軍隊の多くは、母国の南側にシフトしていた。日本の軍隊は米国による侵略はまず南島の九州から行われるのだという正しい予測を立てていたのだ。例えば満州の広東軍のユニットは日本を守ることにシフトしていたため、良い盾となった。ロシアが満州を侵略しようとしたときには、一度はエリート軍であった彼らを突き抜けて進もうとし、多くのロシア軍ユニットはガス欠により中止せざるを得なくなってしまった。


ソ連第16軍はサハリンの南半分から侵攻を始めた。彼らの命はそこに居住している日本人を10~14日の間に一掃することであり、日本の最北に位置する北海道への侵略の心構えをすることだった。北海道を死守することを余儀なくされた日本軍だったが、2つの師団と2つの部隊は人手不足で防備地帯に就いた。


ソ連の計画は、西から北海道を侵略するということだった。


一方から侵略される強大な力と戦うことは出来るかもしれないが、2方向からの強大な勢力に対抗するのは無理があるものだと、天才的な軍人にはそう思わせることはなかった。ソ連の侵略は、まるで外交的戦略を駄目にしてしまったときのように、強硬的戦略までをも無効なものへとしてしまったのだ。一瞬で、日本が考えていた2つの軍事的戦略が一掃されてしまった。広島空襲とは違い、ソ連の侵略は日本の選択肢をどちらも奪う戦略的決断だったのだ。


ソ連の宣戦はまた、策略のためどれほどの時間が残っているかということについての計算も変えてしまった。日本は米国軍の侵略は数ヶ月はないだろうと予測しており、対してソ連軍は10日以内には侵入してくるだろうと考えていた。ソビエト連邦の侵略は、非常に厳しい時間の制約のもと終戦に向かうとされていたのだ。


そして日本の指導者たちは数ヶ月前にこの結論に辿り着いていた。1945年6月の最高会議の席では、彼らはソ連の介入は天皇の運命にも関わると話していた。川辺軍次長はその際、「ソ連との絶対的な平和の維持は、戦争を続けるにあたり必要不可欠だ」とした。


日本の指導者たちは継続的に空襲被害へ遭った都市に対する興味がないことを示している。そしてこれは間違いだったのかもしれなかったが、戦略的影響というところを考えると、これらを重要でない余興だと見たのは正しかったのだろう。


トルーマンが日本が降伏しないのであれば「破壊の雨」を降らせると脅迫した際、米国の中にはすでに破壊するものがほとんど残されていない状況を把握している者もいた。8月7日のトルーマンからの警告が発せられるまで、まだ爆撃を受けていない、100,000人以上が居住する都市は10しか残されていなかったのだ。長崎は8月9日に攻撃され、残りは9都市だった。うち4都市は爆撃が困難な北海道、これは米国軍が航空機の拠点としていたテニアン島から遠く離れていたからである。


かつて日本の中心地であった京都も、宗教的理由、またその象徴であったことから、ヘンリー・スティムソン陸軍大臣によって標的リストから除外。トルーマンの警告は聞こえは恐ろしいものであったが、長崎への爆弾投下がされた後、原爆が落とされる可能性がある大都市は4つのみだったのである。


米国空軍の徹底さと動向は、これまでに幾多もの日本の都市に空襲を仕掛け、30,000人以下の街に減少させたという事実により測ることが出来た。現代世界では、30,000人では大都市とは呼ばない。


もちろん「もう一度」同じ場所に爆撃することも可能だった。しかしこれらの都市は平均的に見て、すでに50%ほども破壊されていたのだ。あるいはもっと小さな街に原爆を落とすことも出来ただろう。しかしながらまだ攻撃されていない小さな街は残り6つしかなかった(人口30,000~100,000ほど)。日本はすでに68都市に空襲を受け、ほとんどの場合、それを無視しており、日本の指導者たちがこれ以上の爆撃に恐れおののくなどということは考え辛かったのかもしれない。戦略的に効力があるものではなかったのだ。



都合の良い話


これら3つ、強力なポイントがあるにも関わらず、典型的な理解は、特に米国において、未だ根深く残っている。事実への反感もある。しかしこれは驚くべきことではないかもしれない。我々にとって広島のこの説明が感情的には都合が良いのだ。上記で挙げた考えは真実であるため根強いが、残念ながら、感情的満足感が得られるため典型的理解もかなり根強いだろう。


例えば、終戦にあたり、広島の典型的理解というのは、日本の指導者たちが、国内、あるいは国際的に、数々の政治的目的を達成することに繋がっている。


天皇の気持ちになってみる。ちょうど国を最悪の戦争に導いてしまったところだ。経済も破綻している。80%もの都市が焼き尽くされた。軍隊は負の連鎖に足を踏み入れている。海軍の多くは死に絶えた。飢餓もやってくる。結果的に戦争は大惨事となり、最悪なのはどれほど状況が差し迫ったものであるのか、自身の国民に嘘を吐き続けていたということであった。


国民は日本が降伏したというニュースにショックを受ける。あなただったらどうするだろうか? 自分が間違えたと認めるか? 状況を見誤り、何度も間違え、そして国家に最悪のダメージを与えてしまったのだと報せを出すのか。


それともこの被害は誰にも予想出来なかったことだとするのか? 降伏は全ての間違いや判断を誤ったことを覆い隠してしまう原爆のせいにするのか。責任を分かち合う必要などない。日本の指導者たちは自身の最大を尽くしたと言うことが出来たのだ。そのため原爆は、日本の指導者たちから責任を逸らすために使われた。


しかし日本の敗北は、その他3つの政治的目的としても利用された。まず、天皇の維持。もし戦争への敗北が誰のせいでもなく、敵側が使用した予測不能な恐るべき兵器のせいだったとしたら、天皇制度は維持出来るかもしれなかった。


次に、国際的同情を集めるのにも役立った。日本は積極的に戦争に参加し、支配した人々に対しては非情なこともやってのけた。この態度は他国から非難される可能性があった。日本を被害者として見せることで、日本軍がやってきた酷い行いを相殺しようと考えたのだ。原爆に注目を集めることで、日本は同情の視線を浴び、受けることになったであろう罰から逃れた。


そして最後に、原爆が戦争の決め手となったという考えは勝利者を喜ばせた。米国の公的支配は1952年まで続き、その間、米国は日本社会を自分たちの良いように作り変える力があったのだ。


占領が始まった初期、多くの日本人政府関係者はアメリカ人は天皇制度を廃止してしまうのではないかと心配した。そしてもうひとつの心配、それは戦争裁判だった(日本降伏時、ドイツの指導者たちはすでに戦争裁判を受けていた)。


日本人歴史学者麻田貞雄氏は、戦後のインタビューで「日本政府は、明らかに質問者を喜ばせることに不安を覚えていました」と話している。もしアメリカ人が原爆によって勝利したと信じたいのであれば、何故彼らをがっかりさせる必要があるのだろう。


原爆が投下され終戦に至ったことで、日本の興味は様々なものとなった。しかしそれは米国の興味を引くことともなったのだ。もし原爆が勝利のきっかけだったとしたら、米軍の力はもっと強大なものとなっており、アジアや世界中での米国の外交的影響も増加し、米国のセキュリティーも強くなっていたことだろう。


片や、ソ連の介入が日本に降伏を決断させたのだとしたら、米国が4年間でも出来なかったことを4日のうちにすることも出来たかもしれず、ソ連軍の権力や外交的影響も増加させることが出来たかもしれない。そして冷戦が始まると、ソ連の侵入が決定的な要因であるとの説は、敵に援助や安心感を与えるのと同等のものになったかもしれない。


ここで持ち上がった疑問に際し、広島や長崎がすべての中心であるとした証拠を考えるのは間違いである。この出来事は核兵器の重要性を教える根本的なケースなのだ。彼らの特殊な状況では、核兵器というのは通常のルールが適用しないのだという考えは極めて重要なものである。トルーマンの「破壊の雨」という脅迫が最初の分かりやすい警告だった。この兵器を囲む巨大なパワーの気配が鍵であり、国際関係において重要なものとなってくる。


しかし、もしこの典型的な広島に対する理解が疑わしいものなのだとすれば、どのように締めくくったらいいのだろうか? 他の主張から見れば広島が中心なのである。しかしこの物語は我々に事実以上のことを教えてくれる。もしこの日本が突然行った降伏の奇跡が結果的にでっち上げられたものだたとしたら、核兵器について我々はどのように考えるべきなのだろうか?



■引用元



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海外の反応


・原因は今はもう分からないかもしれないけど、モラルや道徳は一体どこに行ってしまったんだろうね…。





・日本はすでに負けが決まっていたようなもので、わざわざ原爆を投下する必要なんてなかったはずだよ。




・確かに日本も満州とかを占領しちゃってるから、何とも言えない部分はあるけどね…。でもそれにしたって同情の余地は大分あると思うよ。





・アメリカ人は、アメリカはヒットラーから世界を救ったって言われているんだよ。国によって伝わっている話って微妙にずれてくるものなんだろうね。






・この話について詳しいことは知らないけれど、ロシアはアメリカやイギリスがドイツを負かすのに協力的だった。






・アメリカよりも日本は中国と長く、そしてロシアはドイツとより長く戦っているはずなんだよね。アメリカ自体戦争に参入したのが遅かった。それなのに勝ったのはアメリカなんて…。






・ヒットラーに勝ったのは間違いなくスターリンだよ、だけど日本人に勝ったのはアメリカ人だ。






・日本は日露戦争でロシアを負かしているよ。戦争の勝ち負けってどっちが強いとかもあるけど、当時の経済状況とかも強く関わってくるから、そのとき経済はロシアの味方はしなかったってわけだ。





・これは確かに討論の余地があるトピックだね…。






・降伏の理由が何であったかなんて関係ないわ。私はそんなに大勢の人々を殺してしまう原爆を落とす理由はやっぱりなかったと思うもの。






・ちなみにアメリカはものすごく大きな戦争の中では一度も勝ったことはないんだけどね…。







・「何が」ってわけじゃないと思うよ! 色んな出来事が積み重なって降伏に繋がったんだと思うな。






・「敵を打ち負かす」っていうのと、「戦争に勝つ」っていうのはまた意味がちょっと違ってくるからね…。






・広島と長崎は原爆の試験だったって聞いたことある。






・例え日本がひどいことをしていたとしたって、誰が彼らを責めることが出来たんだろう? 彼らだって戦争を戦っていただけじゃないか!



ひとこと


衝動的な行動以外は大抵複数の理由があるものです。会社を休むときですら3つは理由が存在します



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