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概要


日本産ウィスキーをめぐる旅


筆者は30年前に日本を初めて訪れました。日本に来て最初に驚いたことは、缶ビールが売られている自動販売機を発見したことでした。さらに筆者を驚かせたのはウィスキーの小瓶まで自販機においてあること。当時は自販機で売ってるウィスキーなんてと懐疑的だったのです。


ところが筆者が2004年にアメリカに戻っている間に、日本産ウィスキーブームが始まり、筆者はブームに乗るタイミングを逃してしまったと気づきました。ブームのきっかけは、2003年に東京が舞台の映画”ロストイントランスレーション”で主人公がサントリーウィスキーのグラスを揺らすCM撮影シーンが登場したことでした。


筆者は興味本位で友人のウィスキー専門ライターに話を聞いてみると、筆者が全く知らなかった事実が続々と明らかになります。この20年の間にサントリーやニッカなどの日本の大手ウィスキーメーカーが今や鑑定家たちがのどから手が出るほど欲しがる表彰もののシングルモルトウィスキーを作っていること、1本のボトルの価値に関しては1000ドル台の価値のある銘柄もあることを知った筆者はすっかり自分が出遅れていたことに気づいたのでした。

そしてこの春、筆者はニッカ、秩父、サントリーの蒸留所を訪れました。

事前準備として、日本のウィスキーに関するブログを読み、余市、白州などの銘柄を試飲し、さらには、連続テレビ小説「マッサン」を見て、日本ウィスキーの父と呼ばれる竹鶴政孝について勉強をしたのです。

竹鶴は古い酒蔵の跡取り息子として生まれ、2年間スコットランドで修行した後に日本に帰国し、後にサントリーの創始者となる、鳥井 信治郎の元で働きだします。


1924年二人のノウハウとビジネスセンスを持って、三島に醸造所を作り、紆余曲折はあったものの、ウィスキーの販売をスタートしました。しかし、竹鶴はスコットランドウィスキーに限りなく近い品質のウィスキーを作りたかったため、後にニッカウヰスキーとなるライバル蒸留所を北海道に作りました。

竹鶴が日本産ウィスキーの始祖であるならば、と、旅は余市からスタートしました。

余市へ向かうと、そこは三方を日本海に囲まれ、海風と潮の香が漂う、まさにスコットランドを彷彿とさせるような土地でした。


駅の外で、僕らは灰色のブロックに囲まれた一角を見ました。そこは竹鶴の妻であるリタの名前に由来し、リタ通りと呼ばれ、スピーカーからバグパイプの音が街に響き続けていました。

入口では赤と黒のタータンチェックの衣装を身にまとった受付係に案内を受け多くの観光客を目にしました。


幸い、僕らはバーテンダーとして受賞歴もあり、現在はシェフ兼国際マーケティング担当のトモヨシ氏に案内をしてもらっていました。彼からは良いウィスキーの需要と供給にはおよそ10年ほどのギャップがあると説明を受けました。一度目のブームは1980年代であったが、その後経済情勢が悪化したため醸造を縮小したが、昨今の再びのウィスキーブームによって、取戻しを図ろうと奮闘しているそうでした。

「マッサン」の影響はとてもいいことだが、時としてそれはネガティブな面も持っているんです。」と彼は言う。「ビールと違って2週間やそこらでウィスキーはできあがりませんからね。」

ウィスキーを素早く市場提供するため、今後12から17年の間ニッカは余市と宮城峡の2種の主力商品を出荷停止することを決めたが切迫したような様子は蒸留所では見られず、竹鶴が次のウィスキーを思案する情景が目に浮かぶようでした。


最後には蒸留室へ行き、そこで石炭で熱せられる蒸留釜を見学しました。まるで工業時代のように従業員たちが数分に一度、シャベルで石炭を炉にくべていて、トモヨシ氏は、石炭を使用して温度を維持することは正確さに劣るが、不均一な温度こそが予測できない風味を作り出すと説明してくれた。


次に、秩父市の秩父蒸留所へ向かいました。 ニッカとサントリーとは違っていてそこは10年も経っていなく、比較しても小さい蒸留所でした。 ブランドに対する期待値も低かった中、肥土氏は自由に実験を行い、短期間で、最も人気の高い日本産ウィスキーを作りあげました。

350年続く酒蔵に生まれた肥土氏は、サントリーに勤めてから、祖父が1946年に始めたウイスキー蒸留所に参加しました。ところが売り上げが伸び悩み、彼の父は酒蔵を売却してしまったという。


しかし、肥土氏は、400本の樽を在庫として得たのち、自社ベンチャーウィスキーをスタートさせました。 時間稼ぎのため、彼は父のウィスキーをボトルに詰め、東京エリアでバーを渡り歩き、バーテンダーを口説き落としました。

その後彼が賞を獲得し始めると、彼のウィスキーは値段ははね上がった。1回ごとの醸造は少量に抑え、異常とも言えるぐらいの細心の注意を払って、興味深い工夫を凝らす。


日本固有の木であるミズナラで作られたウォッシュバックと呼ばれる発酵タンクを使うのもその工夫のひとつです。また、肥土氏の斬新なアイデアの1つは、父の在庫を新しいウィスキーと調和させることでした。


僕は甘くて鋭いテイストのDouble Distilleriesという銘柄に一瞬で恋に落ちました。肥土氏が小売販売権を持っていないため、テイスティングサンプルを少しずつ大切に飲むほかなく、私は押しつぶされるような思いで、手ぶらで帰らざるをえなかったのです。

肥土氏のファンに僕はあっという間になってしまいました。1時間ほどの会話の中で、彼は知識豊富にもかかわらず、控えめな印象で、彼の目標はサントリーやニッカに勝つことでも、大金を稼ぐことでもないと、語ってくれました。

「私の目標やモチベーションは、30年物のウィスキーを飲む、ということなんです。後22年もかかるけれど、それさえ叶えば、いい人生だったと思って死ねるはず。」と肥土氏は語りました。

旅の最終地点は、サントリーの山崎蒸留所でした。


博物館は竹鶴に関しては一切触れられていなかったものの、ボトルやラベル、広告のコレクションを所蔵していました。


サントリーのチーフブレンダーである福與伸二氏が館内を案内してくれる中で、余市や秩父で見かけたようなものもあったものの、蒸留室には5組の蒸留釜と1924年のカディスシェリー樽を含め約100万本のウィスキー樽がありました。


在庫は非常に膨大ですが、福與氏のチームは大量の在庫を年にわずかしか品質確認することができません。

最も楽しかったひと時といえば福與氏の仕事について伺ったことで、彼は毎日数十ものサンプルをテイスティングするため、ゆでた魚やコーヒーなどの、彼の舌に影響を与えるような食品は一切口にしない、という話を聞き、ウィスキーを作るのはまるで推理ゲームみたいなもので、誰も、10年後20年後にこの味を消費者たちが好むかなんて想像できず、またもし気に入られたとしても、樽や他の装置の管理は天候などによって変化するため非常に難しいと話してくれました。

彼はかの有名な歌手の都はるみをウィスキー作りのプロセスの例に挙げ、「彼女は今も昔も変わらず同じ曲を歌い続けている、この何年かで声の質は少し変化した。でも彼女が歌っているわけだから結局はやはり同じ曲という事だ。まるで禅問答のようだね。」と言いました。

僕は4種ウイスキーをテイスティングしました。軽い飲みごたえのものはアメリカ産のオークで熟成され、バーボンを彷彿とさせました。2つ目にはミズナラで熟成された銘柄をテイストし、色の深さと辛口の後味が印象的でした。


その後、さらに色の濃い、スペイン産オークで熟成された銘柄では、フルーツのような風味が印象強いものでした。最後の銘柄は燻製のような香りで少し薬っぽいような味わいでした。


それぞれの銘柄をテイストするたびグラスに水滴を吹きかけ、立ち上る香りも楽しんでいきました。



■引用元



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海外の反応


先月山崎の蒸留所に僕も行っていろんなウィスキーを試したよ!次回日本に行くときも絶対また行く!!!






山崎は素晴らしいよ本当に。今まで2度蒸留所に行ってるんだけど、毎回最高の時間をすごしてるんだ。






見学に行く計画を早く立てないと、、






山崎の蒸留所は最高!2回行ったよ!





・良い記事をありがとう。これを参考に僕も蒸留所を巡る旅をしてみるよ






・日本のウィスキーのスペルはスコットランド風のスペルでWhiskyって書くんだぜ。







・ニッカ最高!







・誰か一緒に行こう!






・日本のウィスキーの歴史に関するいい記事だ!!






・ここに行けば日本の秘密が垣間見れるかもしれないね







・日本のウィスキーには特別な秘密があるらしいぞ。。






・俺のじいちゃんが喜びそうな話だ、、



ひとこと


馴染みの薄い日本酒よりウィスキーの方が海外の共感を得られやすいのかもしれませんね



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