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戦後日本が疲弊していた時代、オーストラリアとの友好の架け橋になった日本人がいたそうです

今あらためて海外で話題になっていました


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概要

オーストラリアと日本の懸け橋となった男の話


1942年、日本軍はパールハーバー作戦に成功し、ダーウィンへと矛先を向かっていた。小さな島ダーウィンは18か月間、100回もの爆撃を受けた。日本軍が去った後、彼らが修復のためにまた戻るとは誰もが思っていなかった。


オーストラリア政府は、海運の邪魔になるダーウィン湾の底に沈んだ7隻をスクラップ改修の為に日本からの引き揚げのプロを呼ぶことにした。

戦後日本は物資が不足しており、金属資源があるところへはどこへでも出向いていた。


藤田リュウゴ、藤田海難会社の創立者は120人をその任務にあたらせた。それが北テリトリー図書館で藤田氏の写真アルバムとして展示されている。


ダーウィン爆撃の17年後、オーストラリアと日本はその関係を修復始めた、と上級遺産職員のデービッド・ステインバーグは話す


当時日本人をダーウィンで見るのは特殊で、豪政府は日本兵がこの計画に関わることや現地の人々との関わりを持たないよう規定した


時が経ち、労働者たちは海岸で働くことを許可され、彼らの仕事の熱心さ、荒い波に対して働く姿などから市民から尊敬されるようになった。


藤田氏は平和主義者であり、計画を非公式の賠償、敵との和平、戦争の傷を取り除く機会と捉えており、様々な意味で計画に最適な人材だっだ


彼は77の銅の十字架を船の一部から作り、日本空軍に破壊され再建された教会に寄付した。
この事実からは彼の平和に対する気持ちが垣間見える。


これは、戦後人々を結び付けた歴史の素晴らしい話である。



■引用元
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海外の反応


・藤田氏とその友人たちに祝福あれ


・世界に祝福あれ、多くの犠牲者を出して守ってくれた・・・ 


・興味深い話だ。知らなかったよ 



・当時の日本はオーストラリアに出向くくらい経済的危機に陥っていたんだね


・パールハーバーに比べて、これは知られているうちの少ないダーウィンの爆撃の事実



・和解っていうより、単なる経済的な取引な感じもするけど、まいっか


・オーストラリア政府承認のもとにやっていたんだね


・ロバートメンジーがスクラップアイロンボブって呼ばれた時のことかい?



・日本人はダーウィン爆撃を謝るべきって意見もあるけど、彼らはなにもやってない。自分は何もやってない、自分たちの祖先がやったことを謝る必要はないだろう



・船の上にいる彼が藤田なんだね。優しそうな顔をしている



・平和は勝つ。戦争をしたい人は戦争でお金儲けしている人たちだけ。いつの時代だってね!



・オーストラリア政府がダーウィン湾で沈んだ船の引き上げに日本の会社を選んだって話で当時はみんなが大騒ぎしたもんさ



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